街、雲、それからホッキョクグマ ~ Polarbearology & conjectaneum


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ある一頭の老ホッキョクグマの死 ~ リサの「星の時間」(前)

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Photo(C)DPA

「芸術家の創造において成就される本質的、永続的なものは、霊感によるわずかな、稀な時間のなかでのみ実現する。同様に、歴史のなかでも崇高な、忘れがたい瞬間というものは稀である。……無数の人間が存在してこそ一人の天才が現われ出るのであり、坦々たる時間が流れ去るからこそ、やがて本当に歴史的な、人類の星の時間というべきひとときが現われ出るのである。」
シュテファン・ツヴァイク 「人類の星の時間」 (片山敏彦 訳)


2009年11月のある日、一頭の雌の老ホッキョクグマがひっそりと息を引き取りました。

人間によって用意された環境に黙々と順応せざるを得ない飼育下のホッキョクグマ....もちろん彼女もその例外ではありませんでした。すでに30歳を悠に過ぎた彼女は、必ずしも快適とは言い難かったにせよ30年以上にわたって住み慣れた動物園から突然10月に、そこから遠く離れたこの動物園に移送されたことに戸惑いは隠せなかったでしょう。しかしやがて彼女はすぐに次のように悟ったに違いありません、「もう自分は必要とされていない....」。 動物園に来てくれる子供たちからの自分の勇姿に対する歓声はとうの昔に絶え、聞こえたのは老い果てた姿に対する憐憫、そして時には嘲笑の声だけだったのかもしれません。

夜、寝室に入ることを拒否した彼女は、高齢と病魔に侵された体をなんとか支えていたのでしょう。やたらと空が広々として見える旧東ベルリンの動物園で、彼女には夜空の星が見えたでしょうか? もし見えたとしたら、彼女が眺めていた夜空と同じ空の下で、彼女から数キロしか離れていない場所で多くの動物ファンから声援を受け、そしてその一挙手一投足が注目を浴びていた彼女の孫が暮らしていることなど、彼女には知るすべもなかったでありましょう。彼女は自分の生きてきた過去をどれだけ記憶に留めていたのかはわかりません。ただしかし、自分の生んだ2頭の息子達と一緒に戯れたかつてのあの幸福な時間が、何年、何十年の時を経て突然彼女の脳裏に蘇ったことがあったとしてもさほど不思議ではないでしょう。それこそが彼女にとってもの「星の時間(Sternstunde)」だったということです。極北の大自然の中だけではなく動物園においてすら、その素晴らしい姿を見せてくれるホッキョクグマですが、一生における「崇高で忘れがたい瞬間」があったとすれば、それは出産とそれに続く育児だったでありましょう。

「星の時間」の記憶を取り戻したであろう彼女に残された命は、この後たった1ヶ月ほどしかなかったのでした。
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Photo(C)DDP

続く
by polarbearmaniac | 2010-07-09 19:00 | Polarbearology

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