街、雲、それからホッキョクグマ ~ Polarbearology & conjectaneum


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「ホッキョクグマ飼育マニュアル(Care Manual)」よりの考察(3) ~ 胸部の変化は妊娠の兆候と言えるのか?

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ララ (2012年11月3日撮影 於 札幌・円山動物園)

札幌・円山動物園より数日前にすでに「ララ産室入り」についての情報が発表されています。 同園によればララに現れた変化は「食欲が低下するなど」であると述べています。 一方、北海道新聞の記事によればララに現れた変化は「食欲の低下や胸部のふくらみ」などであるとして具体的に「胸部のふくらみ」が追加されたような形をとっています。 北海道新聞の記事は円山動物園に取材した結果だと考えられますので、「胸部のふくらみ」については同園からの情報であると考えて間違いありません。

さて、この「胸部のふくらみ」(以下、「胸部の変化」と記述します)が雌のホッキョクグマが妊娠している場合の一般的な兆候であるのかどうか、そしてホッキョクグマの妊娠の有無を外見上だけでどう判断してよいかについてここ数日間、AZAの飼育マニュアル(Care Manual) を手始めに欧米、特にアメリカ、カナダ、ロシアで発表された論文、研究報告を全文有料で購入したり、会員登録を行って閲覧したりなどしてかなりの数あたってみました(ロシアについてはソ連時代にソ連科学アカデミーがホッキョクグマについて多くの研究を行っていたそうですが、まだネット上で参照しうるべくデータ化されていないそうですので、非常に限られた文献を当たる以上のことはできませんでしたが)。 その結果として、妊娠しているホッキョクグマに「胸部の変化」が見られる(あるいは見られる場合がある)という記述は見事なまでに存在していないということがわかりました。 (実は他の哺乳類ではこの記述が散見されたものがありましたが。) 

かねてからご紹介しているAZAの飼育マニュアルは全米のホッキョクグマの繁殖に過去成功した動物園の飼育担当者の飼育記録や観察記録、動物学者(特にホッキョクグマ研究の専門家)の研究成果をマニュアルの中に一つに抱合したものであるわけですが、私がいくつか参照したアメリカ・カナダの研究論文、報告の内容が見事にこのマニュアルに反映されていることが今回調べてみて実によくわかりました。 そこで、ホッキョクグマの妊娠の兆候を外見上どう判断したらよいかに関してこのマニュアルがどう述べているかをご紹介してみます。

まず秋に入るまでの段階ではこう言っています。

・Pregnant females tend to gain a lot of weight, and their hair
coat looks better towards the end of summer.
・A pregnant female’s activity decreases significantly in the
early fall, and her appetite will also decrease.


次に出産時期が近づいてきたときにはこういう兆候だと言っています。

・Many females will exhibit changes in behavior such as loss of appetite, increasing amounts of time in the cubbing den, and
restlessness. Some bears may spend increased amount of
time manipulating straw bedding within the den.


妊娠の兆候を意味するこの行動に関しては2010年にオランダ・ロッテルダム動物園のオリンカがヴィックスを産む40日前に自ら産室に入る以下のシーンでもよくわかります。 それからちなみに、私の眼ではオリンカに「胸部の変化」があるようには見えませんが。



次に出産間近の時期の(産室内での)兆候です。

・Individuals may appear to be uncomfortable, frequently lying down and standing up, stretching, and licking themselves.

私が参照した他のいくつかの論文、報告も記載があるものについてはこれらのことと似たり寄ったりの内容です。 これらはすべて妊娠の可能性のある雌のホッキョクグマの行動の特徴を示したもので、そういった兆候がホッキョクグマの妊娠を外見上で判断する一つの基準としています。 それ以外に妊娠の可能性の有無を見分ける特徴、特に「胸部の変化」のように非常に明確かつ、わかりやすい体の変化について記述している研究は私の参照した限りでは存在していません。 「胸部の変化」のように外から認識しやすいものについて、これだけの数のアメリカの繁殖実績のある動物園の飼育現場の担当者、及び名だたるホッキョクグマ研究者が気が付かないはずはまずないだろうと思います。 この記述がないということは、この「胸部の変化」は妊娠しているホッキョクグマの大部分には実は見られないのだと考えてよいのではないでしょうか?

ララが今までの出産の前に体にこのような「胸部の変化」を示しているのは、これはあくまでもララ特有の兆候と現象だと考えた方が現段階では正しいのではないかということです。 つまり「胸部の変化」はホッキョクグマの妊娠の兆候の一つであると判断するのは正しくないと現段階では理解したほうがよいということになります。 ですから、同じ円山動物園のキャンディや、その他の動物園で現在出産を期待されている雌のホッキョクグマにララのような「胸部の変化」がないからといって、それだけで妊娠していないと判断するのはむしろ非常に危険であると考えた方がよいでしょう。 それから、 いくつかある妊娠の兆候の中で最も重視すべきものは食欲の減退という点だと考えてよいように思われます。 この件に関しては現在のララの状態がまさにそういうことになっていることから、彼女の妊娠の可能性が大きいと考えうる大きな根拠だと言えましょう。 それから私が目新しい記述として注目したのは、夏の終わりの時期までにおける体毛の状態に関する記述です。 この状態が良ければ妊娠の可能性を考えてよいという点は今まで日本ではあまり重視されてこなかった点ではないかと思われます。

(資料)
Association of Zoos and Aquariums - Polar Bear (Ursus Maritimus) Care Manual
札幌・円山動物園 (新着情報 Nov.7 2012 - ホッキョクグマ「ララ」の出産準備に入ります)
北海道新聞  (Nov.6 2012 - 円山動物園 ホッキョクグマの「ララ」 妊娠の兆候、産室入り)
・Andrew E. Derocher, Ian Stirling, Dennis Andriashek 1992. Pregnancy rates and serum progesterone levels of polar bears in western Hudson Bay.
・Atkinson SN, Ramsey MA. 1995. The effects of prolonged fasting of the body composition and reproductive success of female polar bears (Ursus maritimus). Functional Ecology 9.
・Derocher AE, Stirling I. 1994. Age-specific reproductive performance of female polar bears (Ursusmaritimus). Journal of Zoology.
・Dierauf LA, Gulland MD. 2001. CRC Handbook of Marine Mammal Medicine, second edition. CRC Press, New York.
・Lintzenich B, Ward A, Edwards M, Griffin M, Robbins, C. 2006. Polar Bear Nutrition Guidelines, Polar Bears International.
・MA Ramsay, Ian Stirling. 2009. Reproductive biology and ecology of female polar bears (Ursus maritimus), Journal of Zoology, Volume 214, Issue 4.
・Polar Bears: Proceedings of the 14th Working Meeting of the IUCN/SSC Polar Bear Specialist Group, 20-24 June 2005, Seattle, Washington, USA.
・Tumanov IL. 2001. Reproductive biology of captive polar bears.

(過去関連投稿)
「ホッキョクグマ飼育マニュアル(Care Manual)」よりの考察(1) ~ 雄雌の同居は繁殖行動期に限定すべき?
「ホッキョクグマ飼育マニュアル(Care Manual)」よりの考察(2) ~ ホッキョクグマの訓練をどう考えるか
by polarbearmaniac | 2012-11-09 21:30 | Polarbearology

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