街、雲、それからホッキョクグマ ~ Polarbearology & conjectaneum


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カテゴリ:倭国旅日記( 29 )

戦後史の闇を歩く ~ 札幌市(中央区)南6条西16丁目に響いた銃声と暗い闇から浮かび上がった真相

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帝銀事件、下山事件、三鷹事件、松川事件...占領下の戦後日本で起きた数々の怪事件は現在もその真相が深い暗黒の闇の中に沈んでいるものが多いが、その最後を飾った一つの重要な事件が、ここ札幌市(中央区)南6条西16丁目の路上で起こったのであった。 今日は、まずその歴史的現場を訪ねてみることにする。
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時は占領下の1952年(昭和27年)1月21日午後7時30分頃のことであった。 市電の現在の西線6条停車場。
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その西線6条停車場から西に向かって歩く。
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南6条西16丁目である。1952年(昭和27年)1月21日午後7時30分頃、ここを二台の自転車がほぼ並んで走行していた。
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そしてこの左側の路上で一台の自転車に乗っていた男がもう一台の自転車に乗っていた男に銃を発射した。 撃たれた男はこの場で絶命したのである。 
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撃たれた男の名前は白鳥(しらとり)一雄、札幌市警察本部の警備課課長であった。 これが有名な「白鳥事件」の発生である。
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戦前、旧満州国の哈爾濱 (ハルビン)でロシア語を学んだ経歴のある白鳥警部は当時公安担当であり、左翼運動を監視すると同時に風俗営業の取り締まりも担当していた。
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白鳥警部を射殺した男はそのまま自転車で西17丁目の方向、すなわちこの円山方面に逃走したのである。
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白鳥警部が射殺された現場の近くには当時にすでに建っていたと思われる木造家屋がまだ残っている。
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これらの木造家屋は白鳥警部が撃たれた銃声を聞いていたであろう。
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事件発生から四か月後に警察は白鳥警部殺害に関与したとして、当時は非合法で武装闘争路線を走っていた日本共産党の札幌地区委員であったMを逮捕した。 直接の実行犯と考えられた男は密航で建国間もない中華人民共和国に逃亡している。 Mは起訴され、懲役20年の刑が確定している。
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裁判の過程で日本共産党と弁護士団体である自由法曹団は、Mは無罪であると一貫して強く主張し続けた。 物的証拠はただ一つ、それは白鳥警部の体内から見つかった弾丸と、Mらのグループが幌見峠で行った射撃訓練で使用され、後に発見された弾丸との銃痕が一致しているというものであった。 ところがその後の鑑定でこの銃痕の同一性はほぼ否定されるに至ったのである。 しかし再審請求は最終的に最高裁判所によって棄却されている。
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刑期を終えたMはその後1994年に自宅に発生した原因不明の火災により謎の怪死をとげている。 指名手配犯3人は逃亡先の中国でその後に死亡している。
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この白鳥事件は唯一の物的証拠であった二つの弾丸の銃痕の不一致が明らかになったことで日本共産党を弾圧する目的で公安当局が行った謀略でありMは冤罪であるという主張は幾分かの説得力を持っていた。 ところが最近、「亡命者: 白鳥警部射殺事件の闇」、及び「白鳥事件 偽りの冤罪」という二冊の本が世に出た。 この二冊は当時の関係者へのインタビューや裁判資料の研究などを通して白鳥事件の真相に深く迫った力作である。 読んでいて手に汗を握るのである。 白鳥事件は冤罪ではないという説、つまり白鳥事件は当時の日本共産党のMが首謀して行った謀殺事件であったという説に極めて強い説得力を感じる。 今回は札幌にこの二冊を持ってきた。 北の街に沈んでいた深い闇に強烈な光を当てた力作である。

Nikon D5300
AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6G VR II
(Jul.19 2014 @札幌市中央区南6条西16丁目、及び藻岩山山頂)

(資料)
「亡命者: 白鳥警部射殺事件の闇」(筑摩書房)
「白鳥事件 偽りの冤罪」(同時代社)
HBCラジオ開局60周年記念番組 「インターが聴こえない ~ 白鳥事件60年目の真実~」 (1)(2)(3) (4)(5)
「現代政治・戦後史研究会」 (白鳥事件資料抄録)(pdf) 
by polarbearmaniac | 2014-07-19 23:30 | 倭国旅日記

飛鳥点描 ~ 陰謀渦巻く古代史の現場を訪ねて

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石舞台古墳にやってきた。 ここは蘇我馬子の墓だと言われている。 7世紀初頭の築造らしい。 以前は墳丘で覆われていたらしいが今ではこの石が剥き出しになっている。
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石室に入ってみる。 もちろん何も無い。
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なんだかあっけらかんとしたものである。 この石舞台古墳は確かに観光名所かもしれないが不思議とイマジネーションが湧いてこない場所である。 無理してまで来るような場所ではないと思う。 ボランティアだかなんだか知らないが、訪問者に勝手にいろいろ説明してくるのが実に煩わしい。 中東、特にイスタンブールやエルサレム旧市街などの歴史的名所などには金目当ての勝手な「自発的ガイド」が多くいて、しつこく言い寄ってくるが、彼らに対しては「金は一切払わないよ」 と一言だけ言えばそれ以上はつきまとってはこない。 しかしここの石舞台古墳のボランティアは金目当てではない「善意の」ガイドである点で厄介なのである。 日本語で「ありがた迷惑」という言葉があるが、こういう勝手なボランティアガイドというのは 「ありがたくもないただの迷惑」 と言うほうが正しい。 お節介も度が過ぎている。 実に不愉快だった。
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飛鳥板蓋宮跡にやってきた。 ここは今回初めて来た場所である。 まさにこの場所で西暦645年に中大兄皇子 (のちの天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺したのである。 いわゆる「大化の改新」である。 実はこのテロ事件そのものは正確には「乙巳の変」と呼ばれ、「大化の改新」というのは用語的にはこのテロ事件以降の政治改革を指している。 この場所に立ってみるといろいろな想像が頭の中を駆け巡るのである。 やはり歴史的事件の現場を訪れた印象のインパクトは非常に大きい。 来た甲斐があった。
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最近言われだしていることだが、この中大兄皇子の蘇我入鹿暗殺には不可解な点がいくつかあるということだ。 蘇我氏は「日本書紀」で描かれているような「悪者」ではなく非常に開明的だったという考え方がある。 中大兄皇子の蘇我入鹿暗殺計画の背後関係には不明な点がいくつかある。 長くなるのでもう書かないが、この「乙巳の変」については今後の評価が注目されるところである。
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蘇我入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次の天皇にしようと計画していたが、入鹿の暗殺によって古人大兄皇子は後ろ盾を失い、この飛鳥寺で出家してしまった。
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これは飛鳥寺のすぐそばにある「蘇我入鹿の首塚」である。 「乙巳の変」で暗殺された蘇我入鹿の首がここに埋められているという話だが、事実なのかもしれない。
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天武・持統天皇陵にやってきた。
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ここには天武天皇と持統天皇 (女帝)が合葬されている。
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ここは1235年に盗掘にあい、天武天皇の棺が暴かれて遺体を引っ張り出され、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたそうである。 持統天皇は初めて火葬された天皇だったそうだが、その遺骨の骨壺は奪い去られ、中の遺骨は近くに捨てられていたそうだ。その時の調査記録が現存しているために、古代の天皇陵では数少ない被葬者が確実である古墳となっている。
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天智天皇の息子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との間でおきた壬申の乱は興味尽きない事件である。 この天智天皇と天武天皇との関係にも実は不可解な点が非常に多い。 壬申の乱は古事記では非常に簡単に述べられている程度だが日本書紀にはそれなりに情報量はある。 しかしそれが事実であるとは言い難い点がいくつもある。一般的に古代史において 「古事記」と「日本書紀」には描かれていないことが多くあるだろう思われる。 そしてそれば、意図的に記述していないという可能性が大きいだろう。 とにかく不可解なことが非常に多い日本の古代史なのだ。

Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(Jan.13 2013 @奈良県・明日香村)
by polarbearmaniac | 2013-01-13 23:30 | 倭国旅日記

奈良盆地 南東部の古墳群を巡る ~ 伝承と史実の交差点を旅する

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箸墓古墳(手前)と三輪山。 久し振りに奈良にやってきた。 今日の散策は奈良盆地南東部の古墳巡りである。
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この箸墓古墳は孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされて宮内庁が管理している。 しかし近年、この箸墓古墳が邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかという説が強くなっている。 
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かつてこの箸墓の構築年代が3世紀末から4世紀初頭と考えられていたために卑弥呼の時代の後の時代に構築されたと考えられていたが、最近の研究でその構築年代が3世紀半ばではないかという有力な説が出現し、俄然この箸墓が卑弥呼の墓ではないかと注目を浴びている。 しかし反対意見も相当に根強い。 長くなるのでこれ以上書かないが、私はこの箸墓こそ実は崇神天皇の墓ではないかと考えている。
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箸墓の比較的付近にあるホケノ山古墳に向かうことにする。
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この復元整備されたホケノ山古墳が箸墓古墳より古いかどうかについては研究者によって意見が異なるようだ。 
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ホケノ山古墳の上から箸墓古墳を望む。 古墳の規模からいって仮に箸墓古墳が卑弥呼の墓であるなら、位置関係から言ってもこのホケノ山古墳は248年頃に亡くなったとされている卑弥呼、そしてその跡を継いだとされる台与の墓だと考えたほうが自然である。 ただし最近の研究ではこのホケノ山古墳のほうが箸墓古墳よりも古いという説が有力である。 となれば「ホケノ山古墳 = 台与の墓」という考え方は成り立たなくなってしまう。
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ここからも三輪山がよく見える。
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手前がホケノ山古墳、遠くにあるのが箸墓古墳である。
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離れた場所から見ても箸墓古墳は巨大な古墳である。 古代史へのロマンを感じさせる風景である。
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右が箸墓古墳、左がホケノ山古墳である。
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やがて畑の中に巻野内石塚古墳が現れる。 巨大な箸墓古墳と比べると可愛らしいとさえ思えるこじんまりとした古墳である。
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景行天皇陵 (渋谷向山古墳) が見えてきた。
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景行天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の父であるとされるが、その実在性には疑問がもたれている。 仮に実在したとすれば4世紀前半だろうと言われている。
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この景行天皇陵も巨大な古墳である。
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さらに北に歩くと崇神天皇陵 (行燈山古墳) が見えてくる。
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崇神天皇こそ、おそらくその存在の可能性は高いと考えてよい最初の天皇(大王)である。 3世紀から4世紀初頭までの時代であったと考えられる。 つまり邪馬台国の時代と重なる部分があるのである。 多分この崇神天皇が日本(倭国)における初代の天皇だったろうと私は思っている。 そして神武天皇と崇神天皇はおそらく同一人物だろうと考えている。 この点に関しては非常に興味の尽きない話なのだが長くなるのでこれ以上は書かない。
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崇神天皇陵とされるこの行燈山古墳よりも箸墓古墳のほうが構築年代は古いのである。これに関しては研究者の見解は一致しているはずである。 そしてなんと、箸墓古墳のほうがこの崇神天皇陵とされている古墳よりも大規模なのだ。そしてあの箸墓古墳という巨大な古墳の突然の構築をもって日本の古墳時代の始まりと考える点で研究者の意見は一致しているはずだ。 となれば、あの箸墓古墳こそ初代天皇(大王)であった崇神天皇 (= 神武天皇) の墓と考えるほうが自然ではないだろうか。 巨大な箸墓古墳が天皇(大王)の墓ではなく孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓だというのは、どう考えても不自然である。 箸墓古墳は天皇(大王)、それも相当に歴史的意義のあることを行った天皇(大王)の墓だと考えるほうが理にかなっている。 箸墓古墳こそ崇神天皇の墓と考えるほうが合理的だと思われる。
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いつも三輪山の臨むこのあたりの風景は素晴らしい。
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卑弥呼の時代と崇神天皇の時代が重なってくるとすると、あの邪馬台国とヤマト政権とは異なるものではないだろうか。 仮に同じだと考えた場合に卑弥呼を天皇の系譜のなかでどういう位置付けをしたらよいかが非常に難しいのである。邪馬台国畿内説を主張する研究者にも、邪馬台国とヤマト政権の連続性を主張する人もいれば断絶していると主張する人もいる。ある著名な考古学者に言わせると、古墳からの出土品を詳しく分類していくと巨大な権力が西から(つまり九州から)畿内に移動してきたという形跡はなく、考古学的には東征説は成り立たないそうだ。 となれば、いったい日本の古代史をどう理解してよいのか全くわからなくなる。 邪馬台国畿内説は九州説と比べると近年は圧倒的に優勢であることは間違いないだろう。 しかし案外その根拠は危うい可能性がなくもないように感じている。 邪馬台国はヤマト政権とは無関係に (そして多分、別の場所に) 存在していたのだと考えるほうが日本の古代史を考える場合に説明がつき易いようにも思うのだ。
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崇神天皇陵から二上山に沈む夕日が見える。
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Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(Jan.12 2013 @奈良県、桜井市、天理市)
by polarbearmaniac | 2013-01-12 23:45 | 倭国旅日記

冬の沖縄に戦跡を巡る ~ 「沖縄県民斯ク戦ヘリ...」

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昨日から所用で沖縄に来ている。 今日の午後に時間を確保して、かつて廻った沖縄戦ゆかりの場所を再訪することにした。 秋にロシア・極東のハバロフスクの日本人墓地に行って以来、第二次大戦における日本軍のことを以前とは別の角度から考え続けている。
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まずやってきたこの丘は豊見城にある旧海軍司令部の防空壕があった場所である。
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沖縄における重要な軍事拠点の一つであった飛行場を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見下ろすこの場所に旧海軍の司令部が置かれることになったようだ。
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この丘からは沖縄戦の激戦地だった一帯を見下ろすことができる。
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この丘から旧海軍の司令部壕までは地下階段を下りていく。
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地下に降りた後、さらに奥に進む。
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幕僚室に着く。
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沖縄戦の戦闘末期にアメリカ軍の攻撃によりこの司令部は孤立し、幕僚たちはこの部屋で手榴弾で自決を遂げたのである。
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自決した際の手榴弾の弾痕が生々しく残っている。
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ここが司令官室である。 司令官は大田実 海軍中将であった。 大田中将もここで拳銃によって自決している。 1945年6月13日のことである。
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大田中将は自決の直前に海軍次官あてに打電している。 そのごく一部を引用する。

「...沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ」

「...看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ」

「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」


この電文には意外なことに「天皇陛下万歳」という文言がないそうである。 
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沖縄本島の南端の喜屋武岬(きやんみさき)にやってきた。
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ここには平和之塔が建っている。
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沖縄戦でアメリカ軍から逃れようとした人々にとって、ここの先にはもう海しかなかった。 多くの方々がこの崖から身を投げたと言われている。
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ここで亡くなられた方々には、人生の最期にこの海の美しさを感じる余裕など到底なかったのは当然である。
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「ひめゆりの塔」にやってきた。
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考えるところがあり、今回はこの「平和祈念資料館」には入らないでおく。
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「ひめゆりの塔」の近くにある「平和祈念公園」から海を眺める。
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「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」 の意味を考え続けている。 複数の解釈と評価が可能だろうと思われる。

Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(Dec.15 2012 @沖縄本島)
by polarbearmaniac | 2012-12-15 22:30 | 倭国旅日記

福岡 ・ 香椎を歩く ~ 仲哀天皇、神功皇后と松本清張を巡る

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昨日から仕事で福岡に来ている。 今日の午後は香椎を散歩することにした。 西鉄・香椎駅からスタートする。函館に続いて今回もカメラはEOS M である。
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香椎宮にやってきた。
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この宮は仲哀天皇(AD148 ~ 200)と神功皇后(AD170 ~ 269)の二座をまつっている。 しかしこの二人の実在性には多大な疑問がある。
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この神門は二層楼閣作りである。神社にしては素晴らしい門である。
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神木とされる綾杉である。神功皇后が西暦200年に植えたとされる。 そもそも神功皇后の実在性自体に疑問があるわけだから、西暦200年という年代にも疑問がある。
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しかしこれは相当に古い樹木である。 「ちはやふる香椎の宮のあや杉は 神のみそきにたてる成けり」と新古今和歌集に詠まれている。 つまり鎌倉時代の初期にはすでに堂々とした木であったのだ。 そうすると、少なくとも樹齢は1000年はあると考えてよいのではないか。
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この香椎宮から一度外に出たところに仲哀天皇の行宮である橿日宮がある。
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仲哀天皇(AD148 ~ 200)は熊襲征伐の途中、この橿日宮で亡くなっている。 AD200年のことであったとされる。
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神功皇后(AD170 ~ 269)は仲哀天皇の棺をこの木に立て掛けたという。 だからこの木は神木となっているようだ。 しかしどう見てもこの木にそれだけの樹齢があるとは思えない。
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右に林の中を歩く。
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ここは仲哀天皇が熊襲征伐のために陣を張ったところだそうである。 しかし、「大本営」などという言い方には違和感がある。
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日本書紀に書かれている仲哀天皇や神功皇后の話は実は九州の一部族の話を日本書紀に取り込んだものではなだろうか? 神功皇后の生きていたとされる年代には邪馬台国の卑弥呼の生きていたとされる年代が含まれる。 ということは神功皇后は卑弥呼のことではないかと考える説がある。 ただし魏志倭人伝に描かれる卑弥呼の邪馬台国が、神功皇后が行ったといわれる三韓征伐(新羅征伐)を行うような力はなかっただろう。 ということは、神功皇后はその後の時代の人物(多分女性)の業績が遡って神功皇后の業績とされて記されているのではないか? ヤマト政権が朝鮮半島に兵を進めたときの天皇は女性であったということは事実だろうが、それが神功皇后であったとは考えにくい。 ともかくこの時代の歴史は謎だらけである。 よく、「歴史は物語である」という人がいる。 本当の事実はわからないから、解釈で幾通りのヴァージョンでも歴史は描き得るという考え方なのだろう。 しかし私は事実そのものの探究以外に興味はないのである。 その探究無くして、いとも簡単に「物語」を語ることは間違いであると考える。 私は「信仰のイエス」には興味はない。 興味があるのは「歴史上のイエス(Historical Jesus)」だけである。 仲哀天皇や神功皇后が実在した確たる証拠はない。 しかし実在しなかったという証拠もない。 日本書紀(あるいは古事記)以外の資料が見つからないことには、この橿日宮で本当に仲哀天皇が亡くなったのだと信じることは難しい。 仲哀天皇や神功皇后は九州に存在した一部族の王であり、ヤマト政権における大王(天皇)ではなかったと考えるほうが理解しやすいように思われる。 しかしそれも確証がない。
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そもそも私は神道などは嫌いであり、神社など好き好んで来たい場所ではない。 来る場合には歴史的興味がある場所に限られるのである。神主のお祓いなど馬鹿げていると思うし、初詣などは意味がないと考える。 初詣などは日本の悪しき風習である。 そもそも神道なるものは哲学・思想を産まなかった。 日本において思想家を産んだのは仏教である。 私は仏教徒でもなければ基督教徒でもないしユダヤ教徒でもない。 しかし仏教やキリスト教やユダヤ教にはある種の敬意は払うものの、神道には何も感じないのである。
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香椎浜に向かう途中で香椎宮の鳥居が団地の中にあるのは奇妙な風景だ。海岸から香椎宮に向かう参道が昔はあったということなのだろう。
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この香椎浜は松本清張の「点と線」の舞台となった場所である。
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「点と線」では、この香椎浜の海岸の岩の上で男女の死体が発見されたのであった。
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天神に戻る。 そういえばもう12月である。 クリスマスセールの飾り付けがされている。 そういえば昨年の今頃はパリで仕事をしていた。またそろそろ海外に出たくなってきた。

Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(Dec.1 2012 @福岡)
by polarbearmaniac | 2012-12-01 23:30 | 倭国旅日記

釧路における漂泊の歌人・石川啄木 ~ 北海道放浪時代の終幕

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啄木は1908年(明治41年)に小樽からこの釧路にやってきた。 釧路新聞の記者としてここ釧路に76日間滞在したのである。
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この港文館は彼が勤めた旧釧路新聞社の建物を復元したものである。
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内部は資料室になっていて彼の釧路での足跡に関する展示がされている。
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啄木の像の横にはこう刻まれている。

「啄木は思うところの多い人間であった。 啄木は自己の感情をいつも人間の真実の中に通わせ、そこからあの底辺の広い文学が生まれた。 啄木はいつも世俗に抗し、精神の高揚を求め続けた。 そこからあの厳しい芸術の世界が展開された。 円い人格ではなく、角だらけの人間であった。 そういう啄木を好まぬ人でも、その作品の中に見える自負と謙虚という矛盾を一つの塊として受け取ることができるのではないだろうか。 詩人石川啄木は明治21年1月21日、雪の釧路に一人降り立った。」

これは誰の文章なのかわからない。 しかし私はこの文章の内容には賛成できない。 この上の文章を書いた人は啄木の人格と作品を統合的なものと理解しようとしている。 啄木の作品から彼の人となりを照射しようと試み非常に無理な理解をしていると思われる。 「このような素晴らしい作品を創作した人だから彼の人格も素晴らしいはずだ。」というナイーヴな考え方が根底にあって、それとは合致しない彼の人格を彼の作品の側から照射して弁護しようとしている。 この理解のやり方が間違いなのである。 芸術家の作品には2つのタイプがある。 一つはその作品が芸術家の人格とその成熟の反映であるというものである。 たとえばベートーヴェンやミケランジェロや夏目漱石の作品はそうである。 二つ目として、表現の素材を巧みに駆使することによって、その素材から広大なイマジネーションを引き出して作品にするケースである。 この典型的な例はモーツァルト、ジェームス・ジョイス、川端康成などがそうである。 村上春樹の作品もこのタイプである。 そして啄木の場合も明らかに後者のタイプなのである。 啄木の作品の魅力は、言葉という複数の素材の造りだすイメージにあるのだ。 だから彼の作品を彼の人格と結び付けて統一的な理解をあれこれ試みるのは間違った理解の仕方なのだ。 よって私は碑に刻まれた上の文章の内容には賛成しかねる。
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港文館の付近にあるこのシェルのスタンドがある場所が、実は旧釧路新聞の社屋のあった場所である。
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このスタンドの脇に「十年まえに作りしといふ漢詩を 酔へば唱へき 旅に老いし友」の歌碑が立っている。
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この某生保の営業所の建物のある場所に、啄木のお気に入りの芸者であった小奴が経営していた旅館があったのである。
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啄木の歌が三首刻まれている。

「あはれかの国のはてにて 酒のみき かなしみの滓を啜るごとくに」
「小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり」
「舞へといへば立ちて舞ひにき おのづから 悪酒の酔ひにたふるるまでも」
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この付近に「啄木ゆめ公園」がある。 啄木との直接の関係はないと思うが、このあたりを啄木も歩いていたことは間違いないだろう。
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その公園の道路をはさんで向かい側に釧路シーサイドホテルがある。 このホテルのある場所にかつての啄木の下宿があったのである。
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ホテルの建物の横に「啄木の下宿跡」の記念碑が立っている。
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昨夜からずっと小雨が降り続いていて肌寒い釧路である。
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啄木はこの釧路から夜逃げ同然の状態で逃げ出したのである。 啄木の北海道放浪時代はこうして釧路で幕を閉じたのだ。

函館同様、釧路にも啄木ゆかりの場所が多い。 そういった場所にはもっと天気の良い日にあらてめて訪れてみることにしたい。

Nikon D5100
AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6G VR
(Nov.18 2012 @釧路)

(過去関連投稿)
函館を巡る (3) ~ 漂泊の歌人・石川啄木を追って
by polarbearmaniac | 2012-11-18 22:30 | 倭国旅日記

函館を巡る (4) ~ 曇天の午後の空の下で...

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五稜郭タワーより五稜郭の眺め。 換算28ミリでは無理である。
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函館山と立待岬。 午後になって空は雲に覆われてきた。
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外人墓地。
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高龍寺である。
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旧ロシア領事館。
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旧相馬邸(下)と旧函館区公会堂(上)。
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旧イギリス領事館。
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今日の午後は雨が降りそうで結局降らなかった函館である。 しかし明日は雨らしい。

EOS M はなかなか私の言うことを聞いてくれないカメラである。 今までキヤノンユーザーではなかった私には使いこなすのにまだまだ時間がかかりそうだ。 このEOS M というミラーレスカメラは初心者向けというよりはキャノンの一眼レフユーザー向けのサブカメラのような気がする。 完全オートモードやPモードでは、なかなかきれいな写真は撮れないようだ。 今日は全て絞り優先で撮ったが、晴れた日ならともかく、今日のように空が暗くなるような曇りの日にどうするかが課題のように感じる。 もっと研究が必要である。

Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(2012年11月11日 @函館)
by polarbearmaniac | 2012-11-11 22:30 | 倭国旅日記

函館を巡る (3) ~ 漂泊の歌人・石川啄木を追って

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今日は詩人・石川啄木(1886 - 1912)ゆかりの場所を訪ねることにする。 立待岬からスタートする。
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立待岬は津軽海峡に突き出た岬である。
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市内から立待岬に到着する手前に啄木一族の墓がある。啄木は26歳で東京で亡くなっているのだが、死後に遺骨が函館に移されてこの場所に葬られた。
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不思議なことにこの墓の正面は海にも道路にも面していない。 墓石には「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」という彼の有名な歌が刻まれている。
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ここからは海が美しく見える。
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立待岬から市内にもどって函館公園に向かう。 ここからは函館山がよく見える。
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函館公園の一角に歌碑がある。「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」と刻まれている。
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函館公園のすぐそばに啄木の居住地跡がある。彼はこの場所に妻の節子と娘の京子とともに約3ヵ月住んでいた。 短い彼の一生のなかでも函館のこの場所での生活は平穏な日々であったらしい。
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この案内板の横の路を上がる。 
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突き当りを左に曲がった路のこのあたりに彼の一家が住んでいた住居があったらしい。
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今来た路を引き返す。この坂は啄木も何度か歩いた路に違いない。
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ここは彼が代用教員をしていた旧・弥生尋常小学校があった場所である。現在の校舎はもちろん新築されたものである。
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大森海岸に車を走らせる。先ほど行った立待岬がよく見える。
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ここに啄木の座像がある。 「潮かおる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや」という彼の歌が刻まれている。
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石川啄木は生活力のないだらしない男であった。 こんな男と好き好んで結婚した妻の節子も不幸な生活を過ごしたのである。 さらに彼は非常に生意気で、学生としても教員としても啄木は問題ばかり起こしていたのだ。 別な言い方をすれば彼は 「いやな奴」 だったのである。 ところがそういった彼の遺した作品は素晴らしい。 私も学生時代から彼の作品のファンなのである。 生身の人間としての性格の悪さ、そして一方で作品の素晴らしさ、これを不思議と考えるのは間違っている。 作品の質とそれを生みだした作者(文学者、画家、作曲家など)の性格とは無関係なのである。 素晴らしい作品を後世に残すような芸術家がいつも人格的にも素晴らしい人であったなどということはないのである。

作曲家リヒャルト・ヴァーグナーは鼻持ちならない男であった。 彼は 「俺には才能がある。 だから一般の凡人たちは俺を援助しなければいけないのだ。 才能ある俺のような人間に奉仕するのが凡人の義務である。」 と考えていた。 借金は踏み倒して当たり前。人の女房も奪ってしまう男なのだった。 自己顕示欲に満ち溢れてもいた。 ところが彼の作品は実に素晴らしい。 彼はJ.Sバッハ、ベートーヴェンと並んで音楽史に多大な貢献をした男である。 彼の功績、そして残した偉大な作品は大いなる称賛に値する。 彼の作品は現在に至るまで音楽ファンを魅了し続けているのである。 イギリス人の指揮者コリン・デイヴィスは「良き作品は良き人格から生まれ、そして良き人々から愛される。」という発言をしている。 これは大変な間違いである。 良き芸術の理解者が良き人格を持っているなどということも言えないのである。ナチス親衛隊の将校が音楽の良き理解者である(実際にそういった人が多かった)ということは不思議ではないのだ。 アドルフ・ヒトラーはヴァーグナー作品の崇拝者であった。 彼はヴァーグナー作品に魅せられていた。ヴァーグナー自身が醜い人格の持ち主であり、彼の作品を愛した人間の一人がアドルフ・ヒトラーであったとしても、ヴァーグナーの作品は芸術的な観点で圧倒的な質の高さを誇っているということに変わりはないのである。

芸術作品の質とそれを造った芸術家の人格、そしてそれを深く理解して享受する人間の人格、これらの関係は実は一筋縄ではいかない。 啄木の人格の醜さと彼の作品の素晴らしさというこの乖離、実に興味深いことである。

Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(2012年11月11日 @函館)
by polarbearmaniac | 2012-11-11 21:30 | 倭国旅日記

函館を巡る (2) ~ ミラーレスカメラEOS Mで試写する

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再びハリストス正教会のあたりに戻る。この写真は実は「手持ち夜景モード」なのだが、ライトアップされた教会を写すと明るすぎるのである。 Avで撮るべきだった。「手持ち夜景モード」にもマニュアルで露出補正ができればよいのだが、それは不可能となっている。
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この上の2枚も「手持ち夜景モード」で写したのだか失敗だった。やはり不自然である。
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上の2枚のカトリック元町教会はAvにて撮影。
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文学者の亀井勝一郎の生誕地跡である。
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函館山のロープウェイの乗り場は長蛇の列である。観光バスでやってきた人々が実に多い。
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これは有名な函館山からの夜景である。これだと「手持ち夜景モード」は生きてくるのである。、すなわち4枚連続撮影画像から1枚の画像に合成するというものである。 結果としてF5.6、1/8秒、ISO8000 での撮影となる。
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函館山を降りて市内に戻る。 これはAvでの撮影である。
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昼間明るいうちに来た赤レンガ倉庫である。 やはりキヤノン独特の色味というものを少し感じる。
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今夜宿泊の函館国際ホテルのロビーに展示されていた食器である。このホテルは平成元年に天皇・皇后両陛下が宿泊され、その時の料理に使用されたものらしい。

このEOS M は素晴らしい画像を記録する能力がある。 ただしかし、まだ全くその特徴を掴み出して写真を撮るまでには至っていない。 当分試行錯誤が続くだろう。 やはりキヤノンで写すのには慣れが必要である。それからこのカメラはバッテリーの消耗があまりに早い。 常に充電済のバッテリーのスペアを1~2個持って歩かないと不安である。 AFはとにかく遅い。 これだけ遅いカメラというのも珍しい。 しかし今日のように動きものを撮るのでなければ、まあ我慢できる。

Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(2012年11月10日 @函館)
by polarbearmaniac | 2012-11-10 23:30 | 倭国旅日記

函館を巡る (1) ~ ミラーレスカメラEOS Mで試写する

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羽田から午前の便に搭乗し、正午頃に函館にやってきた。 函館は5年ぶりになる。 今回はしろくま紀行はお休みで、先日買ったばかりのミラーレスカメラ EOS M だけを持ってきた。 いったいどの程度の写りなのだろうか?
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今回は露出補正、ピクチャースタイルのシャープネス、コントラスト、色の濃さ、色合いの四つを一枚一枚全て独自に設定して試してみることとした。 基本的に全てをAv(絞り優先AE)で撮ることにし、通常よりも1~2段絞って撮ることにする。 まず函館山を撮ってみた。
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ベイエリアの赤レンガ倉庫群にある旧函館郵便局舎である。
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さすがにキヤノン、色味が独特である。
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これは高田屋嘉兵衛資料館である。
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高田屋嘉兵衛は箱館を拠点として各地物産の交易をする「北前船」の事業を展開した。後に幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復としてロシアによってカムチャッカ半島に連行、幽閉されたという経歴すら持つ。 
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函館は比較的早い時間に太陽が函館山に隠れてしまう。 たとえ昼間でも、これからが写真撮影には適さない時間帯になるのである。 空の色を青に保とうとすると函館山がまるでシルエットのようになってしまう。
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これから元町界隈を歩くことにする。 まずは有名なハリストス正教会である。
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ロシア正教の教会は本場ロシアでいくつも見てきたので別に驚かないが、函館のこのエリアにあるハリストス正教会周辺は独特な雰囲気があって私は大好きである。 日本においては異彩を放つ風景だと感じる。
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カトリック元町教会の横から海が見える。
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この古い家屋は実に趣を感じる。
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元町公園からの眺めはなかなかよい。 しかし陽がすでに隠れてしまっているため写真としては褪せて写ってしまう。
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旧函館区公会堂の建物である。 ここも夜になってライトアップされれば美しいだろう。
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少し休憩する。
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カフェの外に出るとあたりはかなり暗くなっていた。

Canon EOS M
EF-M18-55㎜ F3.5-5.6 IS STM
(2012年11月10日 @函館)
by polarbearmaniac | 2012-11-10 23:00 | 倭国旅日記

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