街、雲、それからホッキョクグマ ~ Polarbearology & conjectaneum


by polarbearmaniac

プロフィールを見る
更新通知を受け取る

ララ、その「母親としての偉大さ」を超え「ホッキョクグマとしての偉大さ」へ ~ 「第三期」に入ったララ

a0151913_23292368.jpg
二年サイクルでの繁殖に挑戦させられてきたララに一年間のお休みを与えてやりたかったというのが私の気持ちだった。モスクワ動物園のシモーナは2011年暮れに三つ子を出産したあとの次の出産は昨年2014年の11月であり、一年間のお休みをもらって今回は三年サイクルでの出産に成功している。 三つ子の育児ということの負担を考慮してモスクワ動物園はシモーナに一年間のお休みを与えたのだが、そうでなくても二年サイクルの繁殖を継続してきた雌にはどこかで一年間のお休みを与えるべきだろう。
a0151913_2336390.jpg
このララは実に偉大である。その偉大さは彼女が今まで出産してきた子供たちを見事に育て上げたという彼女の業績以上に、実は彼女は母親としての進化(あるいは「前進」と言い換えてもよい)を遂げてきたという点にあると私は思っている。彼女は決して漫然と子育てを行ってきたわけではないのである。単純な「繰り返し」ではなく、「進化」、「前進」、これこそが最も彼女について評価すべき点なのだ。
a0151913_23591373.jpg
ララの今まで歩んできた人生(Bear' life) を振り返ってみると彼女が最初の出産と育児の両方に成功したツヨシから、ピリカ、イコロ/キロル、ここまでが彼女のホッキョクグマの母親としての「第一期」だったと私は考えている。そしてアイラ、マルル/ポロロ、ここまでが彼女の「第二期」だったと考える。そして今回のオクタヴィアン(仮称)から始まったのが彼女の「第三期」だと理解すべきだと思う。 まず「第一期」だが、それは彼女にとって出産、そして育児は自分の人生(Bear' life)にとってまさに「特別の出来事」つまり「祝祭性」を本質とした全面的な関わり方を行ってきたと考えられる。 彼女はこの「第一期」において自分の生活のほとんどを出産後の育児に捧げたのである。こういった状態は現在の大阪のバフィンの行動に最も強く集中的な形で表れている。 次の「第二期」において彼女は、出産とそしてその後の育児を自分の生活の中心に置きつつも、そこに自らの人生(Bear' life)をも彩る楽しみとでもいったものを付加したのである。そうすることによって彼女は自らの「日常性」を「祝祭性」の延長の彼方に位置付けたのだった。ではいったい彼女にとっての今回のオクタヴィアン(仮称)の出産と育児から始まったこの「第三期」というものはどういう特徴を持っているかということである。
a0151913_23305183.jpg
この「第三期」において彼女はその年の年末の出産を控えた初秋の頃から心は非常な平常心を保っていたように見えた。そして産室に入った後に彼女はまるでそれが当たり前でもあるが如く出産を果たし、そしてその後も淡々と育児を行ってきたかのように想像できる。彼女はこうして雌のホッキョクグマの「大イベント」であるはずの出産(そして育児)から「祝祭性」を奪い取ったのである。残ったのは彼女の人生(Bear' life)における「日常性」だけである。ララはこうして、自らが育児を行っていない時の日常の生活の中に、本来だったら「祝祭(Fest)」であるべき「育児」を吸収・溶解させてしまったのである。 だから彼女は、育児を行っていない時の生活のリズムのままで今回のオクタヴィアンの育児を行っているわけである。オクタヴィアンが存在していようがいまいが、ララの一日の生活の本質的な部分でのリズムは守られている。昼間に寝るときは寝て泳ぐときは泳ぐのである。そうしたララの一日の生活の中にたまたまオクタヴィアンは紛れ込んでいるだけである。これが彼女の母親としての「第三期」である。つまり「第三期」というのは「偉大なる母」という第二期までの段階の概念を超えて「偉大なるホッキョクグマ」という姿の体現を意味するわけである。
a0151913_23312527.jpg
こうしてララはホッキョクグマの母親としてまさに「空前絶後」のレベルにまで突き進んだのである。私が見たところ、このホッキョクグマの母親の「第三期」にまで到達したのは世界でウスラーダただ一頭だけだろうと考えている。そしてララと誕生日が一週間しか違わないモスクワ動物園のシモーナはまだ「第二期」ではないかと私は推測しているが近日中に自分の眼でシモーナ親子を見てくるつもりである。
a0151913_23314154.jpg
私が今回このオクタヴィアン(仮称)を見てララとの関係に奇妙な印象を受ける理由は、おそらくこのララの「第三期」について皮膚感覚での理解以上のものを得るに至っていないためからかもしれないとも思うのである。今までララが育ててきた子供たちが旅だった後になって気が付くことは、それまでの一年間の主役は子供たちだったように見えて、実は母親であるララが隠れた主役であったことにいつも気付かされてきた。こういったことは「第二期」までのホッキョクグマの母親までは当てはまってきたはずであるが、その次の「第三期」に入った母親の場合は、子供たちはドラマの主役にはなれないのである。主役は最初から最後まで、その全体の「日常性」の中の一部として育児を取り込んだ母親となるのである。円山動物園は「ホッキョクグマの赤ちゃんを見に来てほしい」と宣伝しているが、それが当てはまったのはマルル/ポロロまでであって、「第三期」に突入した今回の場合は、「ホッキョクグマの母親を見に来てください。」と言うのが本当は正しいのである。こうして「第三期」に入ったことが確実と思われる今回のララについて、今まで通り赤ちゃんを主役にした視点を続けることは正しくないはずで、私は今までのマルル/ポロロまでのような円山動物園訪問記、成長観察記を投稿することは適切ではないと考えている。ララがこれほどまでに進化・前進を遂げたからには私の視点も従来のものから変わっていかねばならないと考えている。
a0151913_23324896.jpg
私は何を隠そう、このララの偉大さが理解できたのは海外でホッキョクグマのいろいろな親子を幸運にも何度も見ることができたからだろうと思っている。そういう機会が無かったならば私はこのララの真の偉大さを理解するのはララが繁殖の舞台を引退した後の事になっていただろう。ララの後継ホッキョクグマがアイラになるかポロロになるか、あるいはその両方になるかはわからない。しかしアイラやポロロがララほどの偉大なホッキョクグマの母親になれるかと言えば、おそらく極めて難しいだろう。何故ならアイラやポロロがララのレベルに達するということは、それすなわちアイラやポロロが「世界最高レベル」のホッキョクグマにならねば実現しないからである。いくらなんでもそれは無理な話だろう。せいぜい成れても「日本のアイラ、日本のポロロ」が精一杯で「世界のアイラ、世界のポロロ」までは無理だと思われる。 むしろ私はララの本当の後継ホッキョクグマはイコロではないかと最近思い始めている。
a0151913_23331757.jpg
私はあのサンクトペテルブルクのウスラーダがいつからいつまでが「第一期」であり、いつから「第二期」に入ったかはわからない。しかし2010年4月にウスラーダがサイモンとサムソンの雄の双子の育児を行っているのを見たが、今から考えればその時から「第三期」に入ったように思うのである。そして2011年生まれのロモノーソフへの育児も「第三期」だったのだ。ところがウスラーダは2013年に産んだザバーヴァについては「第二期」に逆戻りしたような印象を受けるのだ。それはウスラーダが後戻りしたのではなく娘のザバーヴァとの間で何か雌同士の友情のようなものを実現したかったからではないかと考えている。となれば、このララも一度は「第二期」に戻るということがあるかもしれない。そうなればなったでまた面白いだろう。 いやしかし、あのウスラーダがまるで「第二期」に戻ったような育児を始めたこと、それそのものが「第四期」なのかもしれない。 いや、あるいはペルミ動物園のアンデルマが30歳をはるかに過ぎているにもかかわらず、自分の息子や娘でもない2歳のセリクやユムカと体を寄せ合ってまるで親子のようにして寝ている姿、それこそが「第四期」なのかもしれない。 いずれにせよ「第三期」の後に来るべき「第四期」は、ある種の無私の博愛精神が発揮された親子の姿なのかもしれない。それはもうおそらく宗教的な世界であるだろう。
a0151913_2334029.jpg
さて、今回のララは幾分元気が無いという感じ方をする人は多いかもしれない。つまり体力的にかなり負担が生じているのではないかという捉え方である。そういったことは事実かもしれないが、しかし私はむしろこのララの突入した「第三期」について、我々はそれを的確に理解するに至っていないからではないかと考えるのである。それから、今回のララは母乳があまり出ていないのではないかという考え方は多くあるだろう。 しかしそういったことを考えてみるのならば、何故一体オクタヴィアンがあれほど丸々としているのかの説明を考える方が先ではないだろうか? オクタヴィアンよりもはるかに前に誕生したロッテルダム動物園やアウヴェハンス動物園の赤ちゃんたちが何故オクタヴィアンよりも体が遥かに小さいのかの理由を、私は彼らが双子であるからだという月並みな理由以上のものを考えることができないのである。仮にたとえば今回のララの母乳がいつものララの半分しか出ていないと考えるならば、何故12月の下旬にもなって生まれたオクタヴィアンはそれよりもずっと先に生まれた二組の双子の四頭よりも体が丸々としていて大きいのかということの説明を行わねばならないわけだが、私にはその回答は見いだせない。 となれば、「今回のララは母乳があまり出ていない」という前提それ自体に無理があると考えるのが筋ではないだろうか?
a0151913_2334271.jpg
ホッキョクグマの親子を見ていて一番面白いのは母親が「第二期」に入ったときではないかと思われる。つまりララの場合だとアイラに対する育児を行っていたあたりである。 しかし今回ララが突入したと思われる「第三期」について、それを見た経験のある都市はウスラーダのいるサンクトペテルブルクの人々だけなのである。 そうなると、これは我々にとっての新たなる試練を意味することになる。大阪でのバフィン親子を見ている方が今回のララ親子を見ているよりもストレートに面白いという考え方は多いと思うのだが、大阪のバフィン親子を観察するということは夏の高校野球の甲子園大会の打撃戦となった決勝戦を見るような面白さであり、札幌のララ親子を観察するのはアメリカのメジャーリーグの投手戦を見るようなものである。我々の少なからぬ部分は前者のほうが面白いと感じるのだが後者を面白いと感じるためには我々の側の習練が必要である。
a0151913_23351326.jpg
いやはや、それにしてもララは大変な所まで進化、前進を遂げたものである。あのデナリが釧路に出張して札幌に帰還する「お別れ会」の時に釧路市動物園の担当飼育員さんは挨拶のなかで「デナリには人間として私も随分教えられた。」と感謝の言葉を述べていたことを思い出す。我々はそれと同じことをこのララに対して述べ続けなければならないだろう。
a0151913_23365129.jpg
本心から私はこのララにいろいろと教わり続けていることを感謝したいと思うのである。

やっぱりこれが落ち着くオクタヴィアン(仮称)
a0151913_23371022.jpg
Nikon D5300
AF-S NIKKOR 80-400mm f/4.5-5.6G ED VR
(May.30 2015 @札幌・円山動物園)

(*注 - オクタヴィアンというのは勿論、この赤ちゃんの正式な名前が決まるまで私が便宜上、勝手につけた仮称である。)
by polarbearmaniac | 2015-05-30 23:55 | しろくま紀行

カテゴリ

全体
Polarbearology
しろくま紀行
異国旅日記
動物園一般
Daily memorabilia
倭国旅日記
しろくまの写真撮影
旅の風景
幻のクーニャ
エッセイ、コラム
街角にて
未分類

最新の記事

ノヴォシビルスク動物園を三ヶ..
at 2019-07-15 23:45
成田からノヴォシビルスクへ ..
at 2019-07-14 21:45
盛夏のロシアへ
at 2019-07-14 08:00
ベルリン動物公園のヘルタの力..
at 2019-07-13 23:55
ウィーン・シェーンブルン動物..
at 2019-07-12 23:55
旭山動物園でサツキとピリカに..
at 2019-07-11 23:55
ドイツ・ミュンヘン、ヘラブル..
at 2019-07-10 23:55
モスクワ動物園がシモーナとウ..
at 2019-07-09 23:55
ロシア・クラスノヤルスク動物..
at 2019-07-08 23:55
チェコ・ブルノ動物園のコーラ..
at 2019-07-07 23:55

以前の記事

2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月

検索

ブログパーツ

  • このブログに掲載されている写真・画像・イラストを無断で使用することを禁じます。

ライフログ


人生と運命 1


スターリン―青春と革命の時代


モスクワは本のゆりかご


私のモスクワ、心の記憶


自壊する帝国 (新潮文庫)


甦るロシア帝国 (文春文庫)


嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)


ロシア 春のソナタ、秋のワルツ-1999-21st


それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影


ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌 (新潮文庫)


わがユダヤ・ドイツ・ポーランド―マルセル・ライヒ=ラニツキ自伝


ベルリン戦争 (朝日選書)


Hof――ベルリンの記憶


カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺


北京烈烈―文化大革命とは何であったか (講談社学術文庫)


慟哭の通州――昭和十二年夏の虐殺事件


主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録 (1965年)


藤田嗣治 異邦人の生涯


Barle's Story: One Polar Bear's Amazing Recovery from Life As a Circus Act


Lenin's Tomb: The Last Days of the Soviet Empire


Resurrection: The Struggle for a New Russia


Hotel Adlon: Das Berliner Hotel, in dem die grosse Welt zu Gast war


Ein seltsamer Mann


Alma Rose: Vienna to Auschwitz


St Petersburg: A Cultural History


Gulag