街、雲、それからホッキョクグマ ~ Polarbearology & conjectaneum


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カテゴリ:異国旅日記( 798 )

ポーランドのワルシャワから成田に帰還 ~ 一か月間の旅を終える

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ワルシャワのショパン国際空港。一ヶ月間の旅行を終えてこれから帰国する。
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一か月間というと長すぎず短すぎず、まあまあといった長さである。しかし今回やや特殊だったのは使用通貨が四つもあったことである。ズウォティ(ポーランド)、フリヴニャ(ウクライナ)、英ポンド、ユーロ(ドイツ)という四つである。
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ポーランド航空の成田への直行便である。やや出発が遅れる。
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機材はB787である。
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ポーランド航空のビジネスクラスのこの座席、私は好きにはなれない。20年ほど前のJALのファーストクラスの座席よりも座ろ心地は良くない。
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今回何故ポーランド航空を利用したかといえば、ポーランド航空はウクライナへの路線便が充実しているからである。しかしそれがなければ敢えてポーランド航空を利用する必要はないのである。
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ワルシャワから成田までの飛行時間は約10時間。
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離陸後しばらくして食事の時間となる。
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和食も選べたが洋食にしておいた。
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全体的にはまあまあといったところ。
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量的には物足りない。その点ではアエロフロートは量的に充実していた。
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ポーランド航空はCAの食事柄の段取りが下手である。バタバタしていて見ていて笑いたくなってくる。それから、ポーランド航空はもっとサービス業としてもっと基本的なことを習得すべきである。今のままでは所詮三流の航空会社である。
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これは朝食。
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定刻よりやや遅れて成田到着。
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(Sep.20 2018@成田国際空港、第一到着ターミナル)
by polarbearmaniac | 2018-09-20 13:00 | 異国旅日記

ワルシャワのショパン博物館 (Muzeum Fryderyka Chopina w Warszawie) を訪問して

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ワルシャワにまた夏が到来したような気温と天気である。今日はショパン博物館 (Muzeum Fryderyka Chopina w Warszawie) を訪問することにした。
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ここは私が前回2009年にワルシャワに来た時には改装工事とかで閉館していた。いったいどのような展示になったのかを知りたくてやってきた。
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入り口を入るとアール・ヌーヴォー調である。
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フレデリック・ショパン (Fryderyk Chopin/Frédéric Chopin - 1810~1849) が彼の晩年に使用したピアノが展示されている。
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プレイエルのピアノである。
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さて、このショパン博物館ではショパンがきれいに清書した自筆譜は何枚も展示されているものの書き直しや訂正のある自筆譜は上のたった二枚だけの展示だった。ショパンという作曲家は実は一度書いたものを何度も修正や訂正をほどこした作曲家なのである。その点ではモーツァルトやシューベルトなどと違ってむしろこの点ではショパンはベートーヴェンに近いのである。ショパンというと何かいつもインスピレーションにまかせてどんどんと作曲を進めていったという印象を持つが、実際はそうではなく推敲を重ねながら創作して行ったという面がかなりあるのだ(こういったことは日本語で書かれたショパンに関する本にはほとんど記述されていない)。ところがこのショパン博物館の展示を見ていてもそういったことは全く教えてはくれない。きれいに清書された自筆譜を多く展示すれば、実は彼が作曲の過程で推敲や訂正を多く行ったという事実とは逆の印象を訪問者に与える可能性は大きい。つまりこの博物館はショパンの創作の過程とその独自の音楽の秘密といったものの実像を突っ込んで訪問者に提示しようなどという意思はないということである。こういうことを「薄っぺらい展示」というのである。
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ショパンの書いた手紙などを見ると基本的には彼は字の巧い書き手である。ということは、彼はその早熟な音楽的才能と比較すると言語的能力はさほどでもなかったということを意味しているように考えられる。言語的能力に優れた人間の多くは非常に早い年齢から書に親しんだりする。ところがそういった人間の多くは大人になっても字が下手な場合が多い。反対に字の巧い人間は言語的能力が比較的高くない場合が多いのである。「あなたは字がお上手ですね。」と言われたら「あなたはあまり言語的能力は高くはないですね。」と言われたことと同じだと考えたほうがよいのである。
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さて、こうして言語的能力はあまり優れていなかったらしいショパンだが、その持っている音楽的才能は研ぎ澄まされたスラヴ的感性が土台にあったと私は考えている。そしてショパンはニヒリストであったという故遠山一行氏の意見に私は賛成である。そしてショパンは彼自身の内面を容易には外に表さない人間であったとも思う。
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私が今回初めて見たのはショパンがクララ・ヴィーク(後のローベルト・シューマンの夫人)にあてて書いた献呈の辞である。
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1836年9月のものらしい。この頃シューマンはクララと恋愛関係にあったはずである。ショパンとクララとの間のことを考えてみることもおもしろいかもしれない。
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さてこのショパン博物館、私にはちっともおもしろくなかった。私はショパンに興味がないどころではなく数多くの名ピアニストの弾くショパンの作品の演奏も聞いてきたし、今まで欧米で出版されたショパンに関する本をかなり読んできた。そういった身で感じることは、このワルシャワのショパン博物館は彼の音楽の秘密を解くせめてものヒントすら訪問者に提示しようなどという気はまるでなく、ごく少ない量の展示物を単純に並べただけといったものである。実につまらない。ここに来たのは時間の無駄だった。
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新世界 (ノヴィ・シフィャト - Nowy Świat) 通りに歩き聖十字架教会にやってきた。
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この教会にはショパンの心臓がおさめられている。
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この中にあるらしい。
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ショパンは20歳の時にポーランド(ワルシャワ)を去った。その理由はあくまで政治的なものだった。

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(Sep.18 2018@ポーランド、ワルシャワ)


Vladimir Horowitz plays Mazurka in b minor Op.33 No. 4 by Frédéric Chopin


Alfred Cortot plays Nocturne Op.55 No 2 by Frédéric Chopin
by polarbearmaniac | 2018-09-19 06:45 | 異国旅日記

ワルシャワ、旧ゲットー地区を歩く(9)~ ゲットーを目撃してきた建物たちの夕暮れ

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グジボフスカ通り。
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古い建物が残っている。
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ポツンと取り残されたような建物である。
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比較的近代的なプロスタ通りにも古い建物は残っている。
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古い倉庫のようなものがある。
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ジェラズナ通りに入る。
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ウツカ通り。
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これは古くて廃屋になった建物。
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修復されるのか壊されるのかはわからない。
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プロスタ通りとヤン・パヴェウ二世通りの交差点。
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この建物にもゲットー時代はユダヤ人たちが詰め込まれて住んでいただろう。そして全てトレブリンカ絶滅収容所に移送されただろう。
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(Sep.17 2018@ポーランド・ワルシャワ)
by polarbearmaniac | 2018-09-18 06:50 | 異国旅日記

ワルシャワ、旧ゲットー地区を歩く(8)~ オコポヴァ通りのユダヤ人墓地、そしてユダヤ人大量処刑場跡

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プラガ地区のユダヤ人墓地から旧ゲットー地区のオコポヴァ通りのユダヤ人墓地にやってきた。ワルシャワに二つあるユダヤ人墓地としてはこちらのほうが有名である。
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入るとすぐにこの墓地の以前の門柱が展示されている。
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この墓地はかなりの広さがあるので、ほんの一部だけ見学することにしたい。
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このオコポヴァ通りのユダヤ人墓地はユダヤ人でも比較的中産階級以上の人とか有名人が多く眠っている。
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これは人工言語であるエスペラント語の創始者であるルードヴィク・ザメンホフ (Ludwik Zamenhof 1859~1917) の墓である。
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そしてその近くにあるのがゲットー時代にユダヤ人評議会の議長をしていたアダム・チェルニャクフ (Adam Czerniaków 1880~1942)の墓である。彼については「ワルシャワ、旧ゲットー地区を歩く(3)」で触れている。
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彼はユダヤ人のまとめ役として結果的にはドイツ軍に協力したことになるわけだが、それでも懸命に抵抗した。いくらかのユダヤ人の移送免除を得たがコルチャクの孤児院の子供たちの移送免除を得ることはできなかった。子供たちもが移送されてしまうようではもうユダヤ人には未来はないと悲観して自ら命を絶ったのである。
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これはホロコーストで命を失った子供の犠牲者記念碑である。
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ホロコーストで犠牲となった子供たちは百万人にのぼるとされている。
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さらにその奥にあるのが「ヤヌシュ・コルチャクと子供たち」という記念像である。
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ユダヤ人の孤児院の院長であったコルチャクは彼の最後の孤児院(昨日の投稿参照)から子供たちと共に移送貨車のあるウムシュラークプラッツ (Umschlagplatz - 積替場/集荷場)まで堂々と列を組んで行進したのである。これはコルチャクと子供たちのドイツに対するまさに精神的な抗議行動として理解しても不思議ではないのである。
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ホロコーストの時代において最も高い精神性で無言で抗議したのはこのヤヌシュ・コルチャクと、そしてアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所で死刑に選ばれた男性の身代わりとなって死んだマクシミリアン・コルベ (Maksymilian Kolbe 1894~1941) 神父の二人にとどめを刺すだろう。
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この像の子供たちはみんなうつむきかげんである。彼らには未来は全くなかったのである。
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深い感慨を抱いてこのユダヤ人墓地から出ることにする。
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続いてこのユダヤ人墓地の南側にあるギバルスキ通りを、かなり南側から北に戻る形で歩くことにする。
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このあたりにはかつて運動場があったそうだ。この場所でドイツのワルシャワ占領軍は6500人以上のユダヤ人を射殺によって処刑したそうである。ユダヤ人たちは絶滅収容所に移送される前からこうしてドイツのワルシャワ占領軍によって虫けらのように射殺されていたのである。
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現在でも何か不気味な感じがする。そういういわくつきの場所であるためか、現在でも駐車場にもならずに全く何もない土地としてこうして存在している。何が肌寒さを感じる風景である。
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その一角に記念碑が設けられている。
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戦後に行われた遺体発掘調査の際の写真が展示してあった。
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これが記念碑である。文字は全く記されていない。
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記念碑のあるこの一角、ここが遺体集積所だったそうである。
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すぐ隣は集合住宅になっている。ここに住んでいる人はかつてこの場所で何が行われたのかを知っているのだろうか?
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逆側にはユダヤ人墓地の区画の壁がある。実に興味深い一角である。

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(Sep.17 2018@ポーランド、ワルシャワ)

(資料)
記憶するワルシャワ : 抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織Zegota「ジェゴタ」
ワルシャワから : 記憶の案内書 : トレブリンカ、ティコチン、パルミルィ、プルシュクフへ
by polarbearmaniac | 2018-09-18 06:40 | 異国旅日記

ワルシャワ、プラガ地区を歩く(3)~ オドロヴォンジャ通りのユダヤ人墓地、その荒涼たる風景

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「川向う」のプラガ地区にまたやってきた。今日の目的はオドロヴォンジャ通りにあるユダヤ人墓地である。
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プラガ地区のこのユダヤ人墓地はあまり知られていない。格子戸の入り口は閉まっているのでインターフォンを押すと中から人が出てきて開けてくれる。
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このユダヤ人墓地は1780年に開設されたそうでユダヤ人貧困層の埋葬地だったそうである。
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入り口近くには古い墓石がいくつか見える。
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しかし少し進むと異様な光景が現れる。ほとんどの墓石が倒されている。
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ワルシャワ占領中のドイツ軍はこのユダヤ人墓地の墓石を引き倒し、そしてその石を道路舗装に使ったそうである。
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実に無残な光景である。
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そして荒涼とした心象風景を我々に抱かせるのである。これはもう墓地とは言えないような悲惨な状態である。
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最も奥に台地のようになった部分がある。
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そこに配置されている墓石にはいたずら書きも見られる。ユダヤ人たちはこうして、死んでからももう一度殺されるのである。
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この墓地では実に悲惨な光景が寒々とした形で我々の目の前に現れてくる。
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(Sep.17 2018@ポーランド、ワルシャワ)

(資料)
記憶するワルシャワ : 抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織Zegota「ジェゴタ」
by polarbearmaniac | 2018-09-18 06:30 | 異国旅日記

ワルシャワ、旧ゲットー地区を歩く(7)~ コルチャク最後の孤児院、そしてゲットー南端の風景

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日本では「コルチャック先生」と呼ばれているヤヌシュ・コルチャク (Janusz Korczak 1878~1942) と彼が院長を務めていたユダヤ人孤児のための孤児院である「ドム・シェロト(孤児たちの家)」については「ワルシャワ、旧ゲットー地区を歩く(3)」で述べた通りであるが、その孤児院はゲットー設置の際に二度もゲットー内の別の場所に移動を余儀なくされ最終的にはシェンナ通り16番地/シリスカ通り9番地(Sienna 16 / Śliska 9) に移転した。この場所は戦後にできたスターリン建築の文化科学宮殿の敷地の一部に該当する。そこに立っているのがこの記念像である。
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1942年8月5日(あるいは6日)にコルチャクはこの場所から約200人の孤児院の子供たちとともにゲットー内をウムシュラークプラッツ (Umschlagplatz - 積替場/集荷場)へと行進し、そこから貨車でトレブリンカ絶滅収容所に運ばれたのである。地下組織はコルチャクに対して安全な場所の提供などの便宜を申し出ていたがコルチャクはそれを断り子供たちと運命を共にする道を選んだのである。
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コルチャクと孤児院の子供たちのウムシュラークプラッツ (Umschlagplatz - 積替場/集荷場)までの行進を実際に目撃したゲットー内のユダヤ人は何人もいたそうである。コルチャクと子供たちの歩いた経路を特定する作業も行われているそうで大部分はそういった研究で判明しているそうである。
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それによるとまずシェンナ通りを彼らは歩いたらしい。
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この通りの古い建物である。
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この写真の左側に写っているのが上のシェンナ通りの古い建物、右のクリーム色の建物が私の泊まっているメルキュールホテルである。
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これはシェンナ通りの古い建物とメルキュールホテルの間の部分だが実はここにゲットーの壁があった。シェンナ通りの古い建物はゲットー内(左)、メルキュールホテルはゲットーの外(右)である。
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つまりこのシェンナ通りの古い建物(この写真はメルキュールホテル側)はゲットー内でありこの建物に詰め込まれていたユダヤ人たちはコルチャクと子供たちのウムシュラークプラッツ (Umschlagplatz) までの行進を目撃した可能性がある。ただしそういったユダヤ人たちもすぐ後でトレブリンカ絶滅収容所に移送されただろう。
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ここからヤン・パヴェウ二世大通りを挟んで先日訪れたゲットーの残存している壁を600mmで撮影してみた。生々しい。
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さて、それから彼らはシリスカ通りに入ったらしい。
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この通りにはもう古い建物は残っていない。
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ヤン・パヴェウ二世大通りを渡って反対側にさらに伸びているシリスカ通りを歩いてみる。
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そのシリスカ通りの51番地に現存しているのがかつてのベルソンズ・バウマンズ子供病院の建物である。かつてユダヤ人子供病院として1878年に完成した建物だそうである。
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コルチャクは第一次大戦以前に小児科医として長年ここで働いていたそうである。
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1944年のワルシャワ蜂起の際にはこの病院は蜂起軍兵士の病院としても機能していたそうである。
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シェンナ通り側に回ってみる。
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これがシェンナ通り側から見た子供病院である。
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自分の宿泊しているホテルのすぐそばが歴史の重要な一コマとなっていた。感慨深い夕方の散策だった。
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現在のこの周辺の地図。
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そしてゲットーの存在していた時代の地図である。

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(Sep.16 2018@ポーランド、ワルシャワ)

(資料)
記憶するワルシャワ : 抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織Zegota「ジェゴタ」
ワルシャワから : 記憶の案内書 : トレブリンカ、ティコチン、パルミルィ、プルシュクフへ
by polarbearmaniac | 2018-09-17 06:45 | 異国旅日記

ワルシャワ動物園の秋晴れとホッキョクグマたち ~ グレゴール君、アレウト君、お元気で!

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グレゴール君、アレウト君、こんにちは! また来ましたのでよろしくお願いいたします。
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今回の旅行中で三回目のワルシャワ動物園である。
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今日は晴れていて日曜日である。
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ホッキョクグマ飼育展示場前は人で一杯である。ワルシャワ動物園でもホッキョクグマは人気動物である。
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このワルシャワ動物園をはじめとしてポーランドの動物園は10年ほど前はEAZAから、やれ飼育環境が良くないとか飼育展示場が基準に達していないとかと言われて最終的にはホッキョクグマ飼育の断念にまで追い込まれたのである。
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ところがドイツのニュルンベルク動物園で誕生したグレゴールとアレウトの双子兄弟の移動先選定にEAZAのコーディネーターが苦心惨憺し結局この双子兄弟はそろってホッキョクグマ不在となってでしまっていたワルシャワ動物園に移動してきたのだ。ワルシャワの市民はこの双子兄弟の来園を大いに歓迎し、そして現在もグレゴールとアレウトはこの動物園では大変な人気者になっている。
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このワルシャワ動物園の飼育展示場は壁で仕切られた二つの区画からなっているのだがこの二頭はそのどちらにでも出入り可能である。両側に一頭ずつがいるときもあれは片側に二頭が一種にいるときもある。グレゴールとアレウトはどちらの側にも変幻自在に移動するのである。
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この7歳になっている双子兄弟はお互いに距離は置いているものの基本的には仲は良い。


グレゴールとアレウトの豪快なやりとり - Gregor and Aleut the twin Polar Bears interactive with each other at Warsaw Zoo, Poland, on Sep.16 2018

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7歳になっているこの双子兄弟にパートナーの話は聞こえてこない。ワルシャワ動物園での繁殖は難しいように思う。何故ならこのホッキョクグマ飼育展示場の後方は道路になっていて車の走行音や振動があり産室を設けてもそういった騒音や振動を完全に防ぐことは難しいからだ。
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となると、この双子兄弟がワルシャワ動物園で暮らしているのは単に預けられたからだという考え方が正しいだろう。
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欧州のホッキョクグマ界は近年、雄(オス)が不足する状況になっている。繁殖に実績のある雄(オス)たちが次から次へと亡くなってしまったからだ。
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ワルシャワ動物園もいつまでこの双子兄弟を飼育していられるかは実は不透明な状態なのだ。預託された個体がまるでいつまでも長くいてくれるだろうという勘違いが生じてはいけないだろう。彼らのこれからの運命に注目していきたい。
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グレゴール君、アレウト君、お元気で!

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Panasonic HC-W870M
(Sep.16 2018@ポーランド、ワルシャワ動物園)
by polarbearmaniac | 2018-09-17 06:30 | 異国旅日記

ワルシャワ、旧ドイツ国家秘密警察(ゲシュタポ)本部とワジェンキ公園のショパン像

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今日は旧ゲットー地区のユダヤ人墓地に行くつもりでホテルの前でタクシーに乗ったところ運転手が「ユダヤ人墓地ですって? 今日は土曜日ですから閉まっていますよ。それでも行きますか?」と聞かれてしまった。私としたことが、土曜日はユダヤ教の安息日であった。それで「ではシュフ大通りの旧ゲシュタポ本部へ行ってください。」と言ったところその運転手はちゃんと場所を知っていたのには驚いた。そしてやってきたのがシュフ大通り25番地にある現在はポーランドの教育省になっている建物である。
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かつてこの建物の地下室は拷問部屋になっていてドイツ占領事態にポーランドのレジスタンスの多数の活動家が残酷な拷問を受けて殺されたそうである。
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プレートにはそれが記されている。
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展示館もあるのだが閉まっていた。
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非常に重苦しさを感じるところである。ドイツ占領下のワルシャワにおける恐怖の象徴がこの旧国家秘密警察(ゲシュタポ)本部である。
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気分を変えるために近くのワジェンキ公園に行ってみることにする。
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ワジェンキ公園の中に立っているのが作曲家のフレデリック・ショパンの像である。
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この像は私は以前から気に入らないのである。芸術性はあまり感じない像である。ショパンをあまりに勇猛な英雄視し過ぎているように感じられる。
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ワルシャワにも秋がやってきた。私が今回の旅行を始めた8月20日のワルシャワとはかなり異なる温度である。特に夕方以降が肌寒く感じられる。
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ウヤズドフスキェ大通りを北に向かって歩く。
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左側にアメリカ大使館がある。意外に大きくないのに驚く。
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大使館の向かい側にレーガン大統領の像がある。東西冷戦を勝利に導いたレーガン大統領はポーランドにとっても大きな意味のある大統領だろう。
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やがて三十字架広場が見えてきた。
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1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起が鎮圧された後にこのあたりに生き残ったユダヤ人たちが潜伏していたそうである。当時はタバコを密売するユダヤ人の少年たちがこのあたりにいたらしい。戦後そういった生き残ったユダヤ人の少年たちは戦後まで生き延びてイスラエルに渡ったそうである。
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広場の中心には聖アレクサンデル教会がある。1944年のワルシャワ蜂起の際にはこのあたりは長く蜂起軍の支配下にあったそうである。
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イェロゾリムスキェ大通りと新世界(ノヴィ・シフィャト)通りの交差点。
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イェロゾリムスキェ大通りを西に見渡すと左側は社会主義時代のポーランド統一労働者党の本部のあった建物である。
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新世界(ノヴィ・シフィャト)通りに来ると何かほっとした気持ちになる。今日は旧ゲットー地区から大きく離れた場所だけを歩いたが、やはり街並みが違う。

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(Sep.15 2018@ポーランド、ワルシャワ)

(資料)
記憶するワルシャワ : 抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織Zegota「ジェゴタ」
by polarbearmaniac | 2018-09-16 06:30 | 異国旅日記

ワルシャワ、旧ゲットー地区を歩く(6)~ 1944年ワルシャワ蜂起の痕跡を求めて

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第二次大戦末期の1944年の8月から10月にかけてドイツ占領下のワルシャワで約5万人のポーランド人の対独武装抵抗組織(国内軍 - AK)と市民によるドイツ軍に対する武装蜂起が行われた。それがワルシャワ蜂起 (Powstanie Warszawskie) である。これに対してドイツ軍は徹底的に応戦して完全にそれを鎮圧した。そのワルシャワ蜂起において激戦地だったクラシィンスキ公園近くのビェラィンスカ通り16番地にあるポーランド銀行要塞が当時そのままの姿で現存している。
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地上戦による砲弾の痕跡が生々しく残っている。
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かつて分断時代のベルリン、特に東ベルリンではこのような弾痕のある建物は多くあったが現在ではドイツ人たちがせっせとそれを補修してしまったのでもうほとんど見ることはできない。このワルシャワでも弾痕が残っている建物はここぐらいだろう。これはまさに1944年のワルシャワ蜂起の痕跡なのである。
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このPとWはポーランド・レジスタンスのシンボルである。
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少し歩くとクラシィンスキ宮殿である。
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そのクラシィンスキ宮殿の後ろ側にあるのがこのワルシャワ蜂起記念碑である。
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近くにもうひとつの記念碑がある。
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このような位置関係で二つの碑が存在している。
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すぐちかくにあるのがこのワルシャワ蜂起の際に蜂起軍が移動や逃亡に利用した地下水道への入り口を示す記念プレートである。アンジェイ・ワイダ監督の映画「地下水道 ("Kanał")」はまさに1944年のワルシャワ蜂起における蜂起軍の逃亡を描いている。



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ボニフラテルスカ通りに入る。
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この通りにあるのが聖ヤン教会である。この教会はワルシャワ蜂起時に蜂起軍の病院になったそうである。
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ところが1944年8月に個の教会でドイツ軍が病人、医師、看護師ら300人を射殺したそうである。
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やがてムラノフスカ通りに至る。
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これはソ連侵攻による東方犠牲者を悼むモニュメントである。
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この十字架はソ連侵攻によって東方へ強制艇に移住させられたポーランド東部の犠牲者を象徴しているそうだ。
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ポーランドにとってソ連は決して解放者ではなかったようである。
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(Sep.14 2018@ポーランド、ワルシャワ)



(資料)
記憶するワルシャワ : 抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織Zegota「ジェゴタ」
by polarbearmaniac | 2018-09-15 08:30 | 異国旅日記

ワルシャワ、旧ゲットー地区を歩く(5)~ 1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起の記憶

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ドイツ軍占領下のワルシャワでは二度、占領軍に対する武力蜂起が起こっている。一つ目は1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起 (Warsaw Ghetto Uprising)」、もう一つは1944年の「ワルシャワ蜂起(Warsaw Uprising)」である。前者の主体はゲットー内のユダヤ人、後者の主体はポーランド人である。まず1943年のワルシャワゲットー蜂起 (Warsaw Ghetto Uprising)を現在に伝える痕跡を見ていきたい。上の写真はドイツ軍に対して武装レジスタンスを行ったミワ (Miła)通り18番地にあったユダヤ人戦闘組織司令本部の地下壕の場所にある記念碑である。
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このユダヤ人戦闘組織のリーダーがモルデハイ・アニェレヴィチ (Mordechaj Anielewicz 1919~1943) であった。彼はこの場所にあった地下壕でドイツ軍に降伏することをせずに自殺したのである。
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それまでは「されるがまま」といった姿勢で弾圧などについて常に受け身の姿勢でいたユダヤ人が初めて武装抵抗を行ったのがワルシャワゲットー蜂起であった。しかしそれはドイツ軍によって完全に制圧されてしまった。
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ユダヤ人戦闘組織司令本部のあったミワ (Miła)通り18番地から遠くない場所であるゲットー英雄広場にあるゲットー英雄記念碑である。
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この記念碑の背面にはユダヤ人たちの追い詰められた姿が描かれている。
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そして近くにはユダヤ人戦闘組織のメンバーが逃走するために入り込んだ地下水道の入り口をイメージしたもう一つの記念碑がある。
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ゲットー英雄記念碑と向かい合うように巨大な建物がある。
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それがポーランド・ユダヤ人歴史博物館 (POLIN Museum of the History of Polish Jews) である。
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木曜日は入場が無料である。
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この施設では10世紀以降のポーランドの地におけるユダヤ人の歴史を素晴らしい展示方法で展開している。ここで長い時間をかけて展示を見たが実に素晴らしかった。
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そうこうするうちに午後も遅い時間になってきた。
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ホテルに戻る途中にパヴィヤク監獄を覗いてみた。ここは展示館がるのだがもう時間で閉まっている。
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この監獄ではドイツ占領時代に約10万人が収監されて拷問が行われ、そのうち約三万七千人が虐殺されたそうである。まったく凄まじいものである。

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(Sep.13 2018@ポーランド、ワルシャワ)

(資料)
記憶するワルシャワ : 抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織Zegota「ジェゴタ」
by polarbearmaniac | 2018-09-14 06:45 | 異国旅日記

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